2009/03/08

マルクス(2002)

カール・マルクス(2002)『賃労働と資本 』長谷部文雄訳、岩波書店。

19世紀ヨーロッパでは金や銀を貨幣としていた。ところがこの場合、価値が貴金属の流通量や生産量によって依存する点で、貴金属は価値の尺度としては不安定であった。それに替わる尺度として、マルクスは労働によって定められるとした。この説には、投下労働価値説と支配労働価値説がある。前者では、商品の価値は、その生産にどれだけ労働を費やしたかによって決まるとするが、後者では、その商品の価格でどれだけの労働を支配できるかによって決まるとする。つまり、前者は後者と比較して、資本家の利潤や地主の地代などが価値基準に含まれていないことになる。

商品の自然な価値は投下した労働によって定められると定義したとき、資本の価値も当然、これを生産するにあたって投下された過去の労働によって定められる。 つまり、商品はその生産に関して直接的な労働と、道具の減価分と原料価値に相当する労働の総和によって価値が定まるわけである。 換言すれば、商品の自然な価格は生産費であることになる。

資本家と労働者との間をみてみると、彼らは貨幣と労働力を交換している。したがって、資本家は労賃を商品とし、労働者は労働力を商品としていることになる。 労働力は商品であるから、他の商品と同様に、その生産費と等しい価値を持つ。労働者の労働力の根源として、教育や普段の生活が生産費に相当する。特に単純労働に勤しむ下流階級の場合、必要最低限の生活を営むために必要な労賃が与えられるわけである。

ところで、市場で商品が取引される場合には今まで述べた自然な価値に新たな偶発性な変動が加わる。この変動は三つの原理によって構成されているという。需要が少ないとき、売手たちの間では他の売手よりも価格を低くすることで買手を更に多くしようとする。同様に供給が少ないとき買手たちの間では、他の買手よりも高く買い取って商品を入手しようとする。前者は価格を下落させる方向に、後者は上昇させる方向に働くわけだから、ここで両者は競争しあう。この三つの原理である。結局、需給の変動が価格に変動をもたらし、需給関係により市場での価格が定まるわけである。市場での価格は騰落を平均すると、結局今まで通りの生産費に他ならない。

商品の価値は労働の水準、労働力の価値は最低限度の生活水準であった。資本家や地主は自分たちに対する報酬を労賃の総計に上乗せして商品を売り払う。したがって、商品を生産するにあたって労賃分よりも余計に労働することになる。労働者が認められた労働力はその労働者自身が行った労働よりも小さく、その差分は資本家の利潤や地主の地代となる。このことから、労賃と利潤には負の相関関係があることがわかる。

労使は互いに依存する関係であるにもかかわらず、対立的な関係でもある。資本家は前述の通り利潤を得ているわけだが、それにより資本はつねに増大する。資本の増大は賃労働に何らかの影響を与えるわけだから、社会構造上、労使関係は定まった方向に変化することが不可避である。資本が増大すると、資本家間の競争が高まり、労働の機械化や分業化によってコストダウンを行おうとする。その結果、資本家たちは機械の改良や分業の更なる分業を争う。労働の機械化や分業化によって労働は効率化し、簡単化するため、必要な労働者は減り、さらに労働に対する技術の要求度も下がる。労働者たちは職を争う相手が増えることになり、労賃は二面的に下落する。

資本の過剰な競争は資本の利潤率の低下をもたらす。結局、資本の利潤率と労働者の賃金はともに低下し、競争力の弱い資本家は労働者に没落し、また貧しい労働者は死に至る。すなわち、資本の増大は恐慌を頻発させるという推測がなされる。ちなみに、松原隆一郎はここにシュンペータ流のイノベーションを考えれば利潤率の低下は永続的に成り立ち得ないと言っていた。

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