2009/03/07

入江(2008)

入江哲朗(2008)「『市民性』と批評のゆくえ―<まったく新しい日本文学史>のために」東浩紀、北田暁大編『思想地図』vol. 2、日本放送出版協会。

凡庸と愚鈍
蓮實重彦の概念だが、凡庸とは閉じた型にハマッたありふれた何かであり、愚鈍とは型にハマらない感嘆符の付く開かれた何かと定義しても不都合はないだろう。蓮實は「(凡庸とは)相対的な差異の場である」が、「凡庸さの対極にある言葉は、決して才能でもなければ特権的な資質でもない」と述べているようだ。たしかに天才は型にハマらないこともあるが、その逆は必ずしも成り立たない。また、入江君は次のような蓮實の言説を引用している。
愚鈍というのは、ものの感じられることのできないような何かまがまがしいもの、ただそこにあることでわれわれを脅えさせるようなものを呼ぶわけです。ただしその構図を相対的な差異の計測を許してくれる場に置き、こちらが愚鈍、こちらが凡庸というふうに考えたりすると、再び凡庸さの罠に落ちてしまうことになります。そこで、一方がそのような構図を想定することができるものであるとしたら、いま一方は構図そのものの成立を許さないようなものだと考えざるを得ないし、そこでの両者の比較というのはまったく意味がない。意味を問おうとすること自体禁じてしまうような、ほとんど暴力的な力だと考えざるを得ないわけです。
つまり、凡庸と愚鈍を分類してしまうこと自体が「型にハメる」という行為であり、定義によってそれは凡庸となるということである。では、分類をせずに定義できるのかというと、たとえば自己言及型の命題は定義できるのだから、性質を述べること自体は構わないと思う。


入江君の主張
三島由紀夫は北杜夫の『楡家の人びと』を絶賛し、同作者の『白きたおやかな峰』は個人宛の手紙で批判した。『楡家の人びと』の基一郎は決して天才ではなかったが、型にハマらない愚鈍な何かであった。しかし、それ以外の登場人物は凡庸そのもので、何らかの陥没点にハマッて他人から見て良くない判断をしている。『楡家の人びと』では凡庸と愚鈍が描写され、なおかつ現代小説の流れに抗って平易な文体を使うことによって、描写された凡庸が平易な文章から汲み取れるようにしてあった。三島はそこに市民性を見出したが、平易な文体という戦略は一度しか使えないと言う。しかし、北杜夫はその戦略を繰り返し、三島は小説界と現実界の埋まらない乖離に苛立ちを覚える。ただし、三島自身も市民性という陥没点にハマッている。以上のことを入江君は言いたかったのだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿