ジョン・ケネス・ガルブレイス(1991)『バブルの物語―暴落の前に天才がいる』鈴木哲太郎訳、ダイヤモンド社。
歴史はバブルを繰り返してきたが、共通項がないわけではない。
投機熱が何度も発生する理由は2つある。ひとつめは、金融界の出来事はすぐに忘れ去られてしまうということ。カタストロフィの記憶が消え、その外見を変えた新たな投機熱が人々の心をとらえるまでに20年かかる。これは新世代が台頭するのに要する年数でもある。奇しくも、1987年から丁度20年である。(でも、LTCMとかエンロンとかを挟んでいるか。)ふたつめは、拝金主義である。現在でいえば外資人気みたいなもんで、金を稼ぐほど能力が高いヤツと見られがち。
バブルの中には時代の寵児がいる。成功した投資家は賞賛され、自分自身ですら間違いが皆無と思いこむ。投資する大衆は、この金融の天才に追従し、その時代に登場した新たな投資機会を歓迎する。それはLeverageの再発見であり、ジャンクボンドや証券化商品のように、「現実の資産で裏付けられた負債の創造」が外見を変えているにすぎない。新たな投資機会は人々の心をとらえると、価格上昇が続く。これに対して、市価は下落することなく未来永劫上昇すると考える投資家もいるし、バブルと考えつつも便乗して暴落前に利確する能力があると確信している少数派の投資家もいる。しかし、何らかの原因をきっかけに、前者のような投資家も後者のような投資家も、自分だけは下落のスパイラルから抜け出そうと、雪崩のように売りたたきはじめる。
下落の原因は議論が分かれる。大抵はバブル期に賞賛されていたものが非難されるにすぎない。たとえば外銀とかsubprime mortgageとか。次はCFD取引であろうか。罰すべき犯人を探す。規制や改革の話が出る。しかし、投機熱の背景にあった楽観主義は議論されない。なぜならば、あまりに多くの個人と機関が投機に参加していたために、社会全体よりも特定の投資家に責任を帰すことが穏当だからである。そして、市場は正しい、市場自体には神の手が働くという神学がある。何らかの原因で市場が正しく機能しなかったのであって、市場は悪くない、何らかの原因が悪いと説明される。
バブルが何度も再来するのは人々の楽観主義である。この群集心理から抜け出せれば救われるが、それには二つの大きな壁を乗り越えなければならない。まず、投機熱の発生で自分も資産家になろうと挑戦しがちだが、その私利私欲を脱しなければならない。そして、投機熱を広めている「世論」やオピニオンリーダーを疑わなければならない。シラーの言葉を借りれば、「だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう」(経済学者のロバート・シラーじゃなくて詩人のシラー)
明白な楽観ムードは愚かさの象徴ではないか、知性と金額は無関係である、といった高度の懐疑主義が唯一の対策である。市場があまりに楽観的なときや、特別な先見の明に基づいて投資を勧められるときは、警戒すべき時である。良識ある全ての人は渦中に入らないほうがよい。
経済の実態は諸行無常であり、歴史の教訓は必ずしも指針にならない。A.スミス、J.S.ミル、K.マルクス、A.マーシャルといった偉大な学者は、もはや指針としては不確かである。それでも、支配的状況が同じならば、従わなければならない不可避な教訓もある。それは大衆迎合な準則ではありえない。A.マーシャル曰く「経済学者は喝采を受けることを何よりもおそれるべきだ」といわけである。
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